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BSマイタウン通信

名古屋で出版と古本屋を一人でやっている70過ぎのジジイ。金はないけど暇はある。思うがままに綴る日常とは……。
●当店の「ホームページ」は下記をご覧下さい。
http://www.mytown-nagoya.com/
●ブログ「店主の近況・心境」は下記をご覧下さい・
http://blog.mytown-nagoya.com/?PHPSESSID=339e02ce033948d89a844f9756098c40
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75ジジイの四国一周自転車旅行
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     後期高齢者突入を記念して行った四国一周自転車旅行については、日々、小生のフェースブック「舟橋武志」で写真と動画によってお伝えした。詳しくはそちらをご覧下さい。無事に帰ることができ、改めて原稿にまとめてみた。



    ●自転車で走るにちょうどよい広さ

     今年、後期高齢者に仲間入りした。人生も終末期に入っており、ここで何か一発しておかないと、そのままずるずると行ってしまいそうな気がしてきた。そこで、新年に立てたのが自転車で四国を一周するという目標だった。

     実は26歳と56歳のとき、四国を自転車で旅行している。当時と比べると、自分の体調も四国の風物も、どれほど変わっているのか、にも興味がわいてきた。もう若いころのような走りはできないが、年相応のやり方があるのではないか。

     四国というのは広くもなく狭くもなく、自転車で回るのにちょうどいい加減の大きさである。そこに霊場が開かれたのも、素直に納得がいく。各地に似たような霊場はあるが、四国ほどよくできたところはない。

     何よりも海を渡った先にある、大きな島というのがいい。陸続きのままではメリハリに欠ける。この世の苦しみを乗り越え、海を渡って極楽の世界へ、というわけである。

     楽をして高松から始めるという手もあるが、そこへ行くまでの苦労を味わう必要がある。8月4日に家を出て、帰ってきたのが27日、24日間の自転車旅行となった。直前に膝関節症にかかったが、このときを逃してはもうできそうにない。

     自転車は30余年乗ってきたボロチャリ。19年前に行ったときと同じもので、その日の出で立ちも長袖のシャツにジャージの長ズボンと普段着のまま。足元はサンダル履きで、どこかのジッサがちょっと外出でもしてくるか、といった感じである。

     1日目は大垣、米原と来て野洲(滋賀県)に宿泊、2日目は神戸に着き、フェリーで高松入り。以降、時計回りに徳島(8日)→室戸岬(12日)→高知(14日)→足摺岬(16日)→宇和島(19日)→松山(20日・23日)と四国周辺をなぞり、西条(愛媛県)からフェリーで大阪南港に帰ってきた。

     この間、他の岬にも足を延ばした。四国最東端の蒲生田(かもた)岬(徳島県)、弘法大師も見残したという高茂(こも)岬(高知県)。しまなみ海道も走ったが、折からの台風で途中、あきらめざるを得なかった。

     今回は台風に次々と襲われ、3分の1ほどが雨にたたられた。前の2回は2日か3日あった程度だ。どんな雨のときも合羽をまとうことなく、ずぶぬれになりながら走った。

     国道56号で高知から中土佐(高知県)へ向かうときも雨だった。後から来た軽トラが止まり、運転手が降りてきた。「後ろの荷台に乗ってけ」と言われたが、ありがたく言葉だけをいただき断った。

     それからしばらくしてのこと。「七子峠 7キロ」の表示が出てきた。思い出した。最初の自転車旅行のとき、夜中に通った恐怖の峠だ。

     厳しい坂を分け入るごとに、雨は激しく降ってきた。自転車をこげるような坂ではない。おまけに頭上では稲光がし、ゴロゴロ雷が鳴り出した。

     以前のときは晴天だったが、夜の峠越えになっていた。ここでおびただしいほど乱舞するホタルの群れに出合った。漆黒の闇の中で見るホタルの大軍は猴ゲ蹲瓩箸猊情瓩鯆未蟇曚靴読垉ぬだった。

     越しても越しても、山が立ちはだかってくる。頂上は雲の中に隠れて見えないが、道はその近くまで上ってゆく。土砂降りと雷鳴の中、2時間以上もかかり、ようやく峠を越えることができた。

     すでに時計の針は7時を回っている。いまごろ泊まれる宿は37番札所、岩本寺くらいしかあるまい。ずぶぬれになりながら駆け込むと、宿坊のおばさんは「まず風呂に入れ」「着替えをしなさい」とやさしく迎え入れてくれた。

     窪川町の地名が懐かしい。平成の大合併でいまは四万十町となっている。隣接する四万十市とは別の自治体である。

     四万十と言えば、清流で知られた川だ。前回、新川みのじ会の仲間と落ち合い、源流から河口まで自転車で下っている。あのときののどかさが懐かしく思い出される夜となった。

     この旅のもう一つの目的は狎仟なの寄進王甍貌h濛翁の線香立てや花立てを確認することにあった。前回のときにはまだ多く見られたが、今回は牴滅的瓩箸盡世┐襪曚匹覆なっていた。

     どの寺も立派になった。その建物には萬蔵翁の古い寄進物では似合わないのだろう。屋島寺では大師堂の後ろにかろうじて保管されていたが、多くは住職も代わって存在したことすら忘れられてしまっている。

     国道とはいっても、歩道のない道が多い。トンネルの中はどこも暗く、自動車の轟音がすごい。恐怖にかられながら「もし転倒でもしたら即、あの世行きだろう」と緊張したものでる。
     
    ●行き当たりばったりの宿屋選び

     宿は前もって決めていない。決めたとしても、そこへ行けるかどうか、分からないからだ。パンクや事故でもしたら、予定が大幅に狂ってしまう。

     午後3時を過ぎると、そろそろ宿が心配になってくる。スマホで予約を取るのだが、今回はこれがなかなか難しかった。前2回は着いた小さな集落にも、民宿などがそれなりにあったものだ。

     しかし、今回はだいぶ事情が違っていた。名前はあっても営業していなかったり、中には電話の通じないところさえある。やっと見つけても素泊まりだけ、というところも結構多かった。

     以前と比べると、ここにも地方の疲弊が実感できた。人里離れた道路沿いにはドライブインや飲食店、ガソリンスタンドなどの廃墟が目に付いた。インバウンドも民泊も、四国の地方では無縁のようである。

     人口は最盛期よりも半減したというところもめずらしくなかった。19年前、海辺の食堂で小学3年生の坊やが店を手伝い、「ぼくね、今日、ウェットスーツ買ってもらったよ」とうれしそうに言っていた。

     訪ねると年老いた両親は磯焼きを売り物に営業されていたが、息子さんについて聞くと「いまはサラリーマンをしている」と寂しそうだった。よくなったのは道路とトンネルと橋だけといった感じだ。

     この旅はご馳走攻めとなった。こちらは糸の切れた凧であり、首輪のはずれた飼い犬である。何をしようがお咎めなしで、家では堅く禁止されてきたビールも、朝から堂々と飲める身分になった。

     わらでいぶしたカツオのたたきがこたえられない。タイ飯やタコ飯がうまい。宿では新鮮な魚介類がどんどん出てきた。

     高血圧に糖尿、腎臓、痛風と病気持ちの身だが、走っているとそれらを忘れさせてくれる。体調は尻上がりによくなり、膝の痛みも脇腹の鈍痛も、うそのように消えた。

     滝のように汗を流し、自転車をこぎ続けている。もはやだれもビールを飲むのは止められない。一日に平均5、6本は飲んでいただろう。いくら飲んでも翌日に持ち越すという日は一日とてなかった。

     竜串(高知県)の旅館の人からお膳を返したとき、「あれ、エビはお付けしていませんでしたか」と聞かれた。立派なのがあったが、頭も尾もみんな食べてしまっている。それどころか、どんな魚の骨も、食べるというのが常だ。

     膝関節症で整形外科へ行った折、400円で骨密度が測れると知った。検査結果を見た先生は「若い人よりもすごい」と感心された。そこには腰椎105%、大腿骨122%と記されていた。

     先生はどうせ骨粗しょう症だろうと診ておられたにちがいない。驚きの表情で「何か特別のことをしていますか」と聞かれた。膝は悪いがここぞとばかり、「魚の骨はみんな食べている」と言い、先生をまたまた感心させたのだった。

    ●自転車旅行のやりくり経済学

     この旅の予算は1日1万円である。が、これを守るのはなかなか難しい。続けてゆくうちに、切り詰める手をあれこれ考え出した。

     熱中症を防ぐため、水やポカリは必需品だ。ひどいときはコンビニがあるたびに立ち寄っていた。世話になっている宅配便のドライバーが「1日に4リットルは飲む」と話していたが、炎天下を走っているとそれどころではない。ペットボトルにして10本、6リットルほどを飲んでいた勘定になる。

     これはバカにならない。1日に水だけで1500円前後が消える。ビールに換算すれば2、3本飲めることになるし、4、5日分貯めれば一夜の宿泊代にもなる。

     そこで朝は宿屋を出るときに、日中は道の駅や公園などで、空のボトルに詰めることにした。常時、3、4本は持つようにし、その後は一切、これに金を出すことはなくなった。コンビニに立ち寄る回数も極端に減った。

     氷の誘惑も断ち切った。観光地では一杯500円か600円くらいする。これだけでビールが飲めるほどで、そう思えば食べるのを我慢できた。

     こうした我慢料が食事時のビールになった。気が付けばビールばかりを飲んでいた。各地に地酒もあったし、家では芋焼酎だけだったが、ダラダラ汗を流した後に飲むビールの味は最高だった。

     相も変わらず長袖シャツに長ズボン姿だが、顔や手の甲、サンダル履きの足は真っ黒に日焼けしてきた。顔はサングラスで目の回りが白い犁侫僖鵐性瓩箸覆蝓▲悒襯瓮奪箸里劼發寮廚こめかみからあごにかけて白くついている。われながら、すごい形相になってきた。

     泊まったところは様々だった。一番高かった旅館が1万3000円で、さすがにこれはもったいないと思えてきた。普通は2食付きで1泊7000円前後、素泊まりでは4000円くらいとなる。

     宿泊先では宿帳を書くことになるが、年齢を知ってまず感心される。しかし、だんだんそうではないと分かってきた。ここで倒れられたり病気にでもなられては……との思いからか、何だか無事に早く送り出したいような雰囲気が感じられないでもない。

     当方としてはそんな不安にさせないためにも、空元気ぶりを見せなくてはならなかった。いい年をしたジジイが古くさい自転車でやってきて、行き倒れになったり事故を起こしていたのでは、四国の方々にとってこれ以上の迷惑はない。それに気付いた以降、年はあまり言わないようにした。

    ●目から鱗、ママチャリ恐るべし

     自分の体は心配したが、まさか自転車が壊れるとは思ってもいなかった。行き付けの自転車屋さんに点検してもらい、タイヤやチューブなど悪いものは交換もした。古いとはいえかつての高級車で、死ぬまで使えると思っていた。

     高茂岬の石垣集落で知られる外泊(そとどまり)へ向かっていたときのこと。急な坂の連続でチェンジが壊れ、後ろの車輪が動かなくなってしまった。前進することもバックすることもできず、後ろを持ち上げるようにして1キロほどを、出発したばかりの旅館に向かって歩くはめとなった。

     あいにくの日曜日なのに、自転車屋さんが車で駆け付けてくれた。ここでは直せないと分かり、自転車とともに同乗することに。1時間ほど懸命に取り組んでくれ、切れそうになっていたチェーンも換え、どうにか直った。

     しかし、店を出て1キロほど来たところで、また動かなくなった。自転車屋さんは古いもので部品がなく、半ば応急処置といった感じだった。今度は前とは違い、クランクが固定されてしまい、どうにもならない。

     それから宇和島(愛媛県)までの約50キロ、自転車を引いて歩くことになった。もうこの自転車は直せない、ママチャリでも買おう……こんな思いにさせられ自転車屋を探すのだが、山を越え海辺を歩き、そんなことを幾度か繰り返しながらも、自転車どころか集落もまれである。

     4時間ほどかけ、宇和島まで来た。幸い、宿屋も自転車屋もあった。翌朝、自転車屋さんで診てもらうと「部品がないので直せない」と、先の自転車屋さんと同じ見立てだった。

     ここでちょっといいママチャリを買うことに。登録料や廃車料などを含め、3万円ほどだった。思わぬ出費となったが、それ以上に長年連れ添ってきた自転車と別れるのは辛かった。

     考えてみれば、人生の半分近くを供にしてきた。前回の四国一周旅行もこの自転車でした。自分の歴史や思い出をいまここで捨てるのかと思うと、複雑な気持ちになってくる。

     パンクはあり得るかもしれないと思ったものの、乗れなくなるとはまったくの想定外だった。ママチャリで帰ったら、女房はどんな顔をするだろうか。送り出した息子が女になって里帰りするほど、びっくりするにちがいない。

     これまでママチャリを見くびっていた。乗ってみれば、めちゃくちゃ楽だ。前のものでは上れなかったような坂道も、これなら難なく上ってゆける。

     ものを大切にするとか、古いものにこだわるのはよくない。それは時代や技術の進化を認めないことになる。日ごろの愛着心から捨てるとは考えもしなかったが、後期高齢者としての今後の人生はこのママチャリとともに歩んで行こう、と前向きに考えるのだった。

    ●東本願寺前の「おこや」に泊まる

     伊予西条(愛媛県)からオレンジフェリーで大阪南港へ向かうことにしたのは、昼食をしたときに出会ったおじさんの言葉からだった。「ここから高松への道はそんなに面白くもない。いまにフェリーはなくなるだろうから、乗れるうちに乗っておいては」。前回、高松へは国道11号を通って行っている。

     急きょフェリーに変更、四国を去ることに。いろいろなシーンが思い出されてきた。お会いした人たちの顔が浮かんでくる。四国一周を達成したという満足感と、立ち去る寂しさが複雑に同居していた。

     22日の朝、6時に大阪南港に到着。その日の夜は京都で泊まることにした。東本願寺前には古くから信者向けの安宿がある。面白いことに国別・地域別にあり、参拝者はそれぞれ関係する宿を利用するケースが多い。

     最初に訪れた「ちた」というところは満員だった。ゲストハウスとして変身し、外国人の利用者でにぎわっていた。幸い、富山の「とみな詰所」というところに泊まれることになった。

     実は、筆者は東本願寺、浄土真宗大谷派の寺の生まれだ。小学4年のとき、父に連れられてここの本山で得度している。確か泊まった宿は「尾張屋」と言っていたと思うが、宿の主人の話によると、いまはもうないらしい。

     高校に入ったころ、父に「寺は継がない」と宣言した。父は日ごろの言動から察していたのか、その場で「お前の人生だから」と認めてくれた。得体の知れない重しがその一言で取れたように感じたものだ。

     それから数十年後、通夜の席で叔母から「あなたが跡を継がないと知って、お父さんは随分悲しんでいたわよねえ」と語りかけられた。もし逆の立場だったら、あれほどきっぱりと許せたかどうか。その後は「考え直せ」とか「決めるのはまだ早い」などと一言も言わなかった。

     その父や祖父母が本山へ参るとき、泊まっていたところがいま「詰所」と言われるこうした安宿だった。当時「おこや」「おこや」と聞かされてきたが、ご主人から「御講屋」から来ていると教えられた。素泊まりながらも、人間味にあふれる接待ぶりだった。

     四国ではビジネスホテル、旅館、民宿、宿坊、健康ランドなど、様々な宿に泊まった。ほとんどがありきたりの対応で、ブライバシーに踏み込まないようにしているのか、と思わせるほどだった。19年前に泊まった民宿と言えば、家族の中に入り込むような気安さがあったが、そうした民宿ですら気軽に話し込めるところは少なかった。

    ●最終3日、驚異の自転車ダイエット

     同じ道を帰るのは面白くない。国道8号から421号に進路を変え、鈴鹿山脈を越す八風街道で三重県入りすることにした。四国の山々以上に緊張させられる、この旅最後で最大のショーブとなりそうだ。

     手前の八日市、現在の東近江市にあったビジネスホテルに宿泊。峠を越すと知って係のおばさんから「あまり無理はなさらないように」と言われてしまった。しかし、覚悟はすでにできている。

     24日、今日も暑い日となった。自転車を引いて上ることも多くなると予想したものの、ママチャリに乗ったまま結構行けるのは意外だった。石榑(いしぐれ)峠を越す手前数キロはさすがにきつく、1時間ほど歩かざるを得なかったが、挑戦してみれば、四国で鍛えた身には大したこともない峠だった。

     正午すぎには石榑峠を越えられた。三重県側でもう1泊と考えていたが、これなら今日中に家まで帰れる。あとは桑名まで基本的には下り坂になるはずである。

     四国での最終日は松山の健康ランド「しまなみ温泉 喜助の湯」だった。このとき体重を測ると68.5キロと、家を出てきたときより1キロちょっとしか減っていなかった。飲むに決まっているとみた女房から出がけに言われた言葉、「まさか肥えて帰ってくることはないでしょうね」が恐怖感を伴って思い出されてきた。

     豪華なフェリーのレストランにはおいしそうな料理や日本各地の地酒を集めたコーナーもあった。しかし、犇乏敕膈畛郵颪鯲イ譴襪らには、もう現実に戻らなければならない。

     フェリーでは何も食べず、1日2食と断酒を誓った。何でもやってみれば、やれるものだ。これだけ体を動かしていても守れたし、三重県側で1泊することもなく、その日の午後8時前にはわが家にたどり着けた。

     出迎えた女房は「小さくなった」「小さくなった」を連発した。何か気になる言葉ではないか。自力で四国を一周してきたのだから、人間が大きくなった、とでも言ってもらいたいものだ。

     行く前は体重が69.8キロ、腹囲が97.0センチだった。体重計に乗ると63.2キロに落ちている。腹囲は84.0と10センチ以上も減っていた。これには最終3日間の運動と禁欲が大きく貢献したにちがいない。

     容姿の変化だけに限らず、体内までが浄化された感じだ。膝の痛みは消え、痛風も出そうにない。これまでいろいろなダイエットに挑戦してきたが、自転車で旅に出るのが一番だと思えてきた。

     それもたったの3日ほどでよい。四国であんなに飲み食いしていなかったら、確実に50キロ前半にまで下げられていたはず。そう思うと、もう一度、行ってみたくもなってくる。
    (同人誌「ちいさなあしあと」秋号より)
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